いじめは被害者も悪い?被害者にも原因があると勘違いする3つの理由を解説してみた!


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「あいつが悪いからいじめたんだよ!」

「いじめられるあいつにも原因があるんだよ!」

なるほど、彼がそんな悪い面があるんだね。

それはいじめられるのも仕方がない面もあるね。

え、彼って、そんなに不潔にしていたの。

それは、いけないよね。いじめられても当然か。

いじめは人を殺すこともあります。

それは、自殺をするってことだけではありません。

たとえ、自殺にまで至ら無い場合でも、“殺されるような心境だった”とは、いじめを受けた方の生の声です。

仮にいじめを殺すことと同義と考えてみましょう。

殺しても良い理由なんてあるでしょうか?

殺される程の理由があったのでしょうか?

「あいつが悪いからいじめたんだよ!」
「いじめられるあいつにも原因があるんだよ!」

こんな言葉が当たり前の様に言われることがあるのはなぜなのかを見ていきましょう。

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ここであえて、言葉を入れ替えてみます。

「あいつが悪いからいじめたんだよ!」
「いじめられるあいつにも原因があるんだよ!」

   ↓    ↓

「あいつが悪いから殺したんだよ!」
「殺されるあいつにも原因があるんだよ!」

いかなる場合でも人を殺してはいけません。
もちろん犯罪ですよね。これは理解できると思います。

しかし、いじめは簡単に行われますよね。
そして、それは実際に、人を殺すことにつながります。

たとえ、いじめることに対しての認識の中に、悪質な犯罪行為をしているという自覚があろうが無かろうがです。

そして、いじめられる側にはいじめられるだけの原因があると考えられている方も相当数いることも確かです。

悪気もなくその様に思っている方もいらっしゃると思うのでその辺を解説していきたいと思います。
いじめる側の理屈や論理を肯定する理由を3つ紹介していきます。

目次

理由その1 いじめをいじめと認識していない

まずは、いじめられる側にも原因があるから、いじめられても仕方がないとの考え方には、“いじめ”の意味の理解ができていないことが挙げられます。

冒頭でも申し上げましたが、いじめは人を殺すことと同義の言葉と認識しても過分ではないと考えます。しかしながら、このいじめに対しての認識のハードルは、かなり低いのです。

いじめの意味を改めて確認しておきましょう。

いじめには次の意味があります。
広辞苑第四版(1991年)では次の様に明記されています。

「肉体的、精神的、立場的に自分より弱いものを、暴力や差別、いやがらせなどによって一方的に苦しめること」

いじめという言葉が一般的に使用される様になったのは、1990年代頃からの様です。

また、2013年9月28日施行となったいじめ防止対策推進法には次の様に明記されています。
一 総則 

1「いじめ」を「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校(※)に在籍している等
当該児童生徒と一定の人的関係にある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与え
る行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となっ
た児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」と定義すること。
※小学校、中学校、高等学校、中等教育学校及び特別支援学校(幼稚部を除く。)

学校の設置者と学校に対しての基本的な施策やいじめの防止のための措置について示されています。施策の中では、「三 基本的施策・いじめの防止等に関する措置の4」において、懲戒、出席停止制度の適切な運用等その他いじめの防止等に関する措置を定めることが明示されています。

いじめは法律でも禁止されており、生徒に対しても懲戒や出席停止などの措置が定められていることが特徴です。

刑事罰に処されるなどは無いにせよ、この様に法律によって明確に禁止されているのですから悪いことに間違いありません。

本来であれば、法律の強制力を持たせてどうこうすべきものではなかったのでしょう。しかし、残念ながら、いじめの質の悪質性などからも、道徳的観念などでは如何ともし難かったのでしょう。

実際にこの法律ができ、文部科学省も動きが明確になり、奏功している面も多分にあります。しかし、今度は各学校によるいじめ隠しが問題になってきている皮肉もあるのですね。

そのため、学校に委ねるのではなく、個人レベルで“いじめ”に対しての認識を深めていく必要がある訳です。

いじめがある意味では、ハッキリと何がいじめで、何がいじめではないかが言葉として認識できていない。このことはいじめの被害者も悪く、いじめをしても良いという言葉を助長してしまっている様にも感じます。

まずは、いじめとは何なのか。法律で禁止されている悪いことだと、しっかりと理解をしないといけません。

いじめの意味がわからないから、何かもっともらしい理由があればいじめをしても良いとの結論に達してしまうのです。

また、いじめの言葉としての意味が理解できていないことにより、その他にあるいじめ以外の無数の対応などと、意味が混在化してしまうのです。次の章で詳しくみていきましょう。

理由その2 いじめ以外の方法を知らない

次に、“いじめ”には相手が悪いからとの理由がまかり通ると考えていることも多いようです。

もちろん自己正当化の言い訳としてこの理屈をこねることもあるでしょう。

「いじめられる側が悪いから、いじめたのだ。」

なるほど、この言葉の響きだけですと理屈が通っている様にも聞こえるのかもしれませんね。

このような理屈を生み出す背景には次の理由が考えられます。

選択肢がわからない

いじめられる側がいじめられる理由なんてないし、いじめられる原因なんて存在してはいけない。ここは、大前提としてもう一度言っておきます。

“相手が悪いからいじめても良い”の理由としては、いじめ以外の選択肢を知らない。分からない。といったことが挙げられます。

相手が悪いことをした、もしくはいじめる側にとって腹を立てることがあったとしましょう。

この時に、短絡的にいじめをしたとします。この事は悪いことです。しかし、他に選択肢が分からなかったとしたらどうでしょうか。

自分が悪いと感じたことに対しての対処方法の選択肢が少ないということです。

相手が悪いと感じた ⇒ いじめで対応

すごく短絡的ですが、それ以外の解決方法を知らない場合もあります。それは次の通りです。

本来は、いじめの対象の行いの悪さの大小などは全く関係ありません。いじめはいじめでしかないからです。
そして、いじめが悪いことだからです。その上で、分かりやすくするために次の例を挙げたいと思います。

それは、いじめられる側Aが、散々人をいじめてきた最悪なヤツ
だった場合です。

目には目をはOK?

たとえば、いじめをしてきたAは悪いことをしてきた。
だから、Aをいじめる事は問題ないのでしょうか?

被害者もたくさんいた。それでもいけないことなのでしょうか?

答えはこうです。

「はい、いじめをしてはいけません」

感情的にはいじめても良いのではと勘違いされる方もいるかもしれません。それが悪いことをしてきたことの報いだろうと考える事も自然かもしれません。

しかし、“いじめ”を考えるにあたっては、これはいけないことなのです。

いじめられる側のを、いじめと切り離してみましょう。そうすると、個人としての非はあるでしょう。聖人君子ではありませんから、誰にだって非はありますし悪いところだらけでしょう。

ただし、いじめても良い非などは存在しないということです。

ここも少しごっちゃになっているように思います。

抱えている感情に加えて、知っている選択肢が少ないことから、対処方法に馳せる想像力の欠如は簡単に生まれてしまいます。

悪い相手・または悪いと判断した(もちろん主観によります)相手に対してはどんな対応ができるでしょうか?
大人の方はすぐに回答できるかもしれませんね。

例えば次の様な対応が可能ではないでしょうか。

[deco_bg image=”paper1″ width=”400″]

  • 注意をする
  • 話し合いをする
  • アドバイスをする
  • 仲良くしようと試みる
  • どう接していくか打合せをして対策を練る
  • [/deco_bg]

    今、挙げてみましたが、これらのことはしっかりと考えていないと、いざ、問題に直面した時には導き出せない回答なのではないでしょうか。

    これらの対応ができることを、生徒は既に知っていたでしょうか。

    仮に相手が悪いとしても、いじめるのではなく、“注意する”という選択肢がありますよね。

    そこには労力が伴うが、注意するか話し合うか、相談するかしかない。

    この様な判断力はあるのでしょうか。非常に理性的な判断を伴うかと思います。

    心根が優しければ、果たしていじめないでしょうか?
    友達思いだといじめないでしょうか?

    大切な友達がいじめられた。いじめてきた相手が今度はクラスで劣勢になっている。

    みんなからいじめの標的にされ始めた。

    「みんな、話し合いをしよう」

    そうなるでしょうか?

    結構、難易度の高いことだと感じます。

    極端に聞こえるかもしれませんが、極悪人がいじめられている例を挙げて、それでも[いじめはいけないことだとの認識が必要不可欠に思います。また、その時にでき得る対応策を皆で考えて挙げていく。

    一度、これらを経験するのとしないのとでは、全く結果は異なってくるでしょう。

    平和的解決の道しかない

    相手が仮に悪いことをしたとしても、基本的には、話し合うなどして平和的解決の方法を知らない。また、平和的解決でしか結局はいじめを助長せずに解決する道はないと知ることが大事ですね。

    先に分かっていないと、いじめがいけないということが理解できないかもしれませんね。

    広い意味でのいじめの中には、注意する事も含まれるかの様な、相手に対する対応への混在した認識も簡単に起こりうることでしょう。

    自分の感情が先に立って、その感情を正義感でコーティングして相手にはいじめとしてぶつける。

    ありがちな現象ではあるのかもしれませんが、賢くはないばかりかいけないことですよね。

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    理由その3 いじめをいじめとして縦分けれていない

    言葉としてのいじめの意味を理解できていないことと、いじめ以外の対応の方法ががわからずに対処方法が分からないと書きました。

    これらにより、いじめをいじめとして、独立したものとして縦分けする事が難しいことが挙げられます。例えば、いじめといじめ以外の対応などを、二極化しても良いのでしょうか?

    こちらも答えはシンプルです。

    「しっかり立て分けて下さい。次元が違います」

    まったく次元の違う二つの選択肢ですので、本来は同列にものを語ることですらありません。しかしながら、この辺りで混乱している方が多いのも事実です。

    いじめ  :  話し合い・注意

    の関係を考えてみましょう。

    いじめといじめ以外が混乱している場合の言い分はこうです。いじめ以外って何だ?って感じもしますが、いじめではない他の対応とお考えください。

    [deco_bg image=”paper1″ width=”400″]

  • 注意することがいじめになる事もある 
  •  
         ⇒いじめなければ大丈夫です

  • いじめも注意の一つだ 
  •  
         ⇒違います

  • 話し合いでいじめが起きる 
  •  
         ⇒話し合いではなく完全にいじめです

  • いじめなければ自分がいじめられていた 
  •  
         ⇒もちろんいじめです。

  • イライラしながら話し合った   
  •      
    ⇒平和的アプローチOKです

  • 怒りをむき出しにして話し合った
  •    
         ⇒平和的アプローチOKです。[/deco_bg]

    理由1、理由2でみてきましたが、改めてこれらの混乱が起きないように再度クリアにしておきたいと思います。

    “いじめなければ解決しないこと”というものは存在しなません。

    この前提に立って、全てに関わっていかなければ簡単に誤ります。

    図解で見てみますと次のようなイメージです。

    いじめと戦わせるべきものであっても、お互いが共存するということはあり得ません。
    ましてや、混在化する事も本来はありません。

    意味を勘違いして起きる現象の様に考えます。

    まとめ

    “いじめの被害者も悪い”とする風潮はまだまだ沢山ある様です。
    “いじめられる側にも非がある”と言った場合に、人ですので“非はある”でしょう。

    しかし、それがいじめられる理由には一切なりません。いじめても良い理由にはならないのです。
    くどいようですが、いじめられる“非”にはなる事は無いのです。

    いじめられる側が悪いことをしたとか、悪い部分があるのはそれはそれで、いったん話は終わりです。いじめられる事とは別次元の話なのです。

    ここは理解しておきたいものです。

    仮にいじめで物事が解決したこととしましょう。解決したかのように見えたとしましょう。解決したように思ってしまっているとしましょう。

    しかし、いじめをした側の人間、その当事者自身はそのいじめを一番近くで見てきました。

    いじめは他人にしているように見えて、一番近くで見ている自分自身がずっと見ています。

    心の傷が相手に残る事はもちろんですが、いじめをした側の当事者の心にも傷となって一生つきまとうでしょう。

    いじめは自分も相手も殺すことができてしまいます。

    いじめを理解して、価値的な明日にトライしていきたいものですね。

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